第3回 スリープロ株式会社 代表取締役社長 高野研
 
社長になるためではなく、やりたいことをするために会社を作りました
 
  学生ベンチャーからスタートし、パソコンサポート業で大企業と次々に契約を決めている会社がある。2万人の契約エージェントは個性やライフスタイルを尊重
され、社員以上にこの会社を愛しているという。逆風の吹くベンチャー界で成功した秘訣はどこにあるのか。
   
  震災でアルバイト先をなくしたのが契機
 ぼくが立命館大学の2年生のころですから1995年ですが、その年の1月17日に、例の阪神大震災があったんです。
 当時、ぼくは神戸に住んでいて、家庭教師などのアルバイトをやっていましたが、震災でどこも家庭教師どころではなくなってしまった。それでその年の夏ごろはヒマで仕方がなくて、何しようかとプラプラしていたんです。
 ちょうどぼく自身がパソコンを使い始めていた時期だったので、パソコンでも教えてみようかなと思い立って動いていました。
 ニフティの「ビジネス創業フォーラム」という掲示板にいろいろと書き込んで、さまざまな方と出会ったりしたのもそのころです。そのときの出会いが、のちに役立ったりしているんですよ。「ニセ学生!?」という妙なハンドルネーム(ネットワーク上での呼び名)を使っていたんですが、一応、本物の学生でした。あんまり学校には行きませんでしたが。
 立命館大学では、慶応大学のSFCに対抗してBKCというキャンパスを作っていて、これは「琵琶湖草津キャンパス」の略で何の芸もないのですが、理工学部がそこに移って、ぼくは1期生ということになります。
   
  起業家コンテストに入選して事業開始
 理工学部情報学科が専攻ですが、理工学部というのはパソコンを使うというより、その前の何を作るかが本業になります。じつはそれに違和感を感じていて、3年生になるとギャップが大きくなった。
 それと、ぼくは「語」とつくものが大の苦手で、英語も国語もイヤだったから理工学部に行ったのですが、「C言語(プログラム言語のひとつ)」が登場して「ああ、これはもうヤバい」と。それで学校よりも仕事に熱中したんです。
 神戸の家から京都の大学までは、往復で2時間半以上かかっていました。それで電車の中でパソコンを覚えようと、当時としては非常に珍しい小型のノートブック型を買って、車内でいじりました。目立ちましたよ。今でこそ1両にふたりは必ずいますが、そのころでは普通の電車でパソコンを使っている人なんていませんでしたから。
 パソコンを教える仕事は、最初のころは小遣い稼ぎ程度に考えていて、それほど真剣ではありませんでした。
 いろいろなベンチャーのコンテストには応募していましたが、それはどちらかというと賞金狙いで、まだ自分のビジネスをどうしようという考えではなかったんです。神戸出身のパソナの南部さんが震災復興を目的にして設立したベンチャーファンドにも応募しましたよ。見事落選しましたが。
 ところが、95年の冬に、京都市ベンチャークラブが主催した起業家コンテストに入選してしまった。大学で募集のポスターを見つけて、パソナに出した10ページの書類を2ページに縮めて応募したら、奨励賞が取れたんです。連絡を受けたときにはすっかり忘れていて、新手の勧誘かと思ってしまったほ どです。10万円の賞金と記念の盾をもらいました。
 その賞の授賞式に「日経ベンチャー」の編集長が来ていたので、「パートナー会社求む」という記事を書いてもらったんです。どうせ受賞の記事が載るだろうから、その横に小さく入れてくれ、って
   
  電気屋さんの店頭ポスターで客集めをはかる
 そのときから今の社名の「スリープロ」を使っています。もちろん当時はまだ個人事業としてですが。
 個人事業でも、企業相手なので名前がないとどうしようもないんですよ。
 社名の由来は後に経営理念となる「プロミネント・プロビジョン・プロバイダー」つまり「自信を持ってお客様に明るい将来を提供します」という意味の3つのPから作りました。これ、帰国子女の友だちが考えてくれたんです。
 最初は「PPP」ではどうかと言われたんですが、ちょっと語呂が悪い。「3P」では社会的によ ろしくないだろうということで、共通する「プロ」を取って「スリープロ」にしたわけです。
 パソコンのサポートというと、そういう意味の言葉をつけてしまいがちですが、将来的になんでもできる名前にしておきたかったので、あえて「パソコン」とか「サポート」という言葉は避けたんです。
 仕事の営業は、家庭教師の延長線で考えていましたから、掲示板にポスターを貼ったりしていました。でもそれじゃお客さんはこない。それで考えたのが、みんなはパソコンを電気屋さんで買うんだから、わからないことは電気屋さんに聞くだろう、ということ。それで電気屋さんに「パソコン家庭教師やります」のポスターを貼ってもらいに行きました。
 大きな量販店では相手にしてくれないと思ったので、とりあえず近所にある店に話をしたんです。そうしたら、そこがチェーン店で、「本社に行ってくれ」と言う。しかたがないので電車に乗って、遠くにある本社に訪ねて行ったら、気むずかしそうなお爺さんの社長が出てきて、話を聞いてくれました。その結果、「貼るだけだったらいいよ」と許可をもらって、有頂天でしたね。
   
  松下と一緒にパソコン戦略を練るチャンス
 ところがです。あとでわかったことですが、その電気屋さんのチェーンではパソコンを扱ってなかったんです。無愛想な社長は、ぼくの話を聞いて、パソコンを置いてないのにポスターを貼らせてくれたんですね。認めてくれたんでしょうか。
 でもパソコンを売っていない店にポスターがあっても、お客さんが来るわけはない。しかたがないので別のことを考えようとしているところに、その社長さんから電話がありました。「今、ある会社にいるからそこの応接室に来い」という呼び出しです。行ってみたらそこは、松下ライフエレクトロニクスという松下電器の子会社で、ナショナルのお店を統括しているところだったんです。社長をはじめ幹部がずらっと揃っているところに案内されて、例のお爺さんが「名刺交換をしなさい」と言う。お爺さん社長は、ナショナルのお店が作っている組合の、兵庫県の会長さんだったんです。「ウチはパソコンを売っていないから、ウチとやっても大きくなれんぞ。松下を紹介してやるから、ここと組みなさい」と勧められ、松下ライフエレクトロニクスと一緒にパソコンの戦略を練ることになりました。
 そこからスリープロの歩みが始まります。当時、松下では「ウッディ」というパソコンを開発して、大々的に売っていこうとしていました。そのためには町の電気屋さんにパソコンの使い方を理解してもらう必要がある。そこにスリープロが協力していく、というわけです。さらにパソコンを売った後のサポートも大変なので、それも手伝わせていただきたい、と提案しました。いい感じで、とんとん拍子に話が進んでいきました。
 当時は神戸の実家にある自分の部屋にパソコンを1台置いて、電話線を引いただけのオフィスでした。中古のコピー機を買ってきて、毎晩コピーを取っていましたよ。
   
  出資者も見つかり、本格的事業に突入
 そんなころ、例の「日経ベンチャー」の記事が世の中に出て、それをたまたま見ていた印刷会社の2代目社長が声をかけてくれました。それが今のスリープロの会長の竹中です。
 日商岩井でベンチャー部門の統括をやられていた方を間に立てて、話があったんですが、その話がまとまって、96年の春から「ザ・ポイントスタジオ」という竹中が持っていた会社に「スリープロ事業部」を作ってスタートすることになりました。
 この会社は休眠会社だったので、事実上、スリープロが法人になったようなものです。そこから3年間、その体制が続きます。
 実は「日経ベンチャー」に記事が出て、声をかけてきたのは竹中のほかにも5、6社ありました。「会社ひとつ作るくらいだったら、協力してやるよ」という感じで。驚いたのは、みなさんお忙しい社長さんたちなのに、はるばる来ていただいたことです。新幹線の新神戸駅でお会いしたり。
 なのに、竹中の代理の人は、「じゃあお互いに公平な名古屋で会おう」と言うんです。新幹線代がなくて、アルバイトで貯めてから会いに行きました。でも、ぼくにとって新鮮だったのは、ジーパンはいて怪しげなことをしている学生を大人として扱ってくれたことです。それが一緒にやることになった決め手です。
 その後は比較的順調に来ているんですが、97年の年末に山一証券が倒産してベンチャーブームが急速に冷え込んだときは大変でした。ちょうど増資をしようとしていたときだったんですが、それどころではなくなってしまった。幸いにして乗り切りましたが。
 それよりも辛かったのは、当時のライバル会社、ジェイコムの倒産です。20万人くらいの会員を抱えていましたが、それが潰れたということで、世間の目が厳しくなってしまいましたから。お客さんからも、「お宅は大丈夫?」と聞かれて、落ち込みましたよ。
 そのころ、関西最大の電気屋さんである上新電気が、お客さんになってくれました。それ以来、お客さんは増え続け、パソコンを使っているところとは必ずどこかでつながっている、といえるまでになっています。
   
  独特のビジネスモデルでさらなる飛躍を計画
   ところで、ぼくはこれまで一度も社長になりたいと思ったことはありません。社長にならないとできないことがやりたいから、やっているという感じです。
 われわれのビジネスモデルは、はやりのBtoBやBtoCではなくて、BtoBtoCというものです。スリープロと契約するメーカーや販社がいて、それぞれにお客さんがついている。つまり、われわれがパッケージにするサービスを、直接お客さんに売るのではなく、お店やメーカーに買ってもらうというわけで、「サービスの製造業」とでもいえるかもしれません。
 東京電力や東京ガスは直接お客さんと契約しますが、電気やガスの工事をするのは別の会社です。これからはインターネットの世界でもそうなるでしょう。だからわれわれは「インターネットの工事屋さん」を目指すんです。
 実際にお客さんの面倒を見るのは、契約エージェントの人たちです。パソコンについてひと通りの知識がない人は登録しませんので、スキルレベルでの教育はしていません。教えているのは、マナーについてとか、取引先の会社についての知識などです。口の利き方や説明の仕方、謝り方についてのマニュアルは、めいっぱい提供しています。
   
  スタッフの学生気分を認めて志気を高める
 この会社に対するぼくのコンセプトは明快です。ぼくが職を失ったら、明日から働きたい職場であってほしい、ということ。だから「必要のないときにスーツを着たくない」「茶髪でもいいでしょ」「やりたくないときには仕事をしたくない」「キックボードに乗って通勤したい」といった要望をかなえています。大人になり切れてないやつが多いんですよ。だけど、そいつらの気持ちを大切にしてやりたいんです。
 おかげで一般企業より安い時給ですが、居心地がいいらしいですよ。自分が休みの日に、豚まんを20個も差し入れに持って遊びに来るようなのがいますから。
 将来的には、ウチを卒業した人が名の通った企業を受けるとき、「スリープロで働いていたんなら、1次試験を免除しよう」と言われるような会社にしていきたいと思っています。
 また、「テンプ・トゥ・ファーム」というんですが、ウチから派遣している人を気に入ってもらったら、採用してもらうようなシステムも考えています。
 もうひとつ進めていきたいのは、スーパーの中に出店している合鍵屋さんや靴の修理屋さんのように、パソコンの修理やサポートを行う小さな店を展開すること。「PC24へ行けば何とかしてくれる」と誰 もが思ってくれるようになればいいですね。これはFC業態で展開していく予定です。
   
 
  高野研氏のプロフィール
 1975年5月17日、石川県金沢市生まれ。幼いころに兵庫県神戸市に引っ越す。京都の立命館大学に進学し、理工学部情報学科在学中に阪神大震災を体験。家庭教師のアルバイト先を失い、パソコン家庭教師を志す。1995年12月、京都市ベンチャークラブの起業家コンテストに入選。奨励賞を受賞する。この縁で出資者がみつかり、翌年4月から本格事業開始。パソコンサポートの雄として飛躍を遂げる。
 
 
スリープロの事業
パソコン家庭教師からパソコンサポート会社へ進化し、全国7拠点で契約エージェント2万人の体制を誇るスリープロ。その事業内容は、パソコンメーカー、パソコン量販店などと契約し、先方の顧客に対して技術的なサポートを提供するというものだ。そのためにITに強い人材をエージェントとして登録し、客先の要望に合わせた人材を適材適所に配置する。契約企業は面倒なアフターサービスをアウトソーシングできるという利点を評価している。コールセンター、ヘルプカウンター、パソコンスクール、トラブルシューティングなどのスポットサービスなど、サービスのスタイルは多岐にわたる。個人向けのヘルプデスクサービスをパッケージングした「解決大王」は、パソコンに関する疑問・質問に電話で回答してくれるもの。10ポイントがパッケージされていて、問題解決がそのポイントに達する
まで有効という、ユニークなアイデア商品である。
 
 
高野社長から独立志望者へのアドバイス
1. フットワークのよさは武器になる。どこにでも顔を出せ
2. 目立つことを恐れるな。創業者が目立って困ることはない
3. 引っ込み思案は敵。利用できる相手は粘って見方にせよ
4. チャンスが到来したら、最大限の力を注ぎ、思いきり飛躍せよ
5. スタッフを見方にしたいなら、自分が働きたい職場を作れ
「開業マガジン No.19」より

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